『「17歳で逝った息子」とその母が伝えたいこと』長野の子ども白書掲載手記全文

 

【本記事は、毎日新聞社様、長野の子ども白書様より、全文掲載の許諾を得ています】

9月23日付毎日新聞記事「「ギフテッド児」と重なる「17歳で逝った息子」 周囲の理解あれば…母と専門家対談」はこちら(リンク)

 

 4年前、私は17歳の息子に先立たれました。自死でした。あれからずっと息子の自死の要因を自問すると、息子と私のさまざまなできごとが次から次へといくつでも思い浮かびます。もしそのいくつものパズルの1ピースでも欠けていたら、息子は逝かずに済んだのかもしれません。本当のことは本人にしかわかりませんが、私は自分を責め、苦しみ、一生答えを探し続けたいです。

 「長野の子ども白書」への寄稿のお誘いを受けました。書こうと決断し、書き始めたものの、17年間の息子の人生を行ったり来たり、迷路に入り込んだり執筆から逃げたりしてなかなか筆は進まず、半年間かけてやっと息子の思いと自分の思いが重なるところを見いだして、「伝えねば」と思いました。



成人式

昨年私は亡くなった息子が同級生に会いたいだろうと思い、平成最後の成人式に臨みました。誰にも知られずに帰るつもりでしたが、会場に中学の学級担任の姿を見つけた私は、思わず歩み寄っていました。担任に「思春期の生徒は繊細で、実際に自死する事があるということを知ってください」と告げて逃げ帰りました。(これ以上、傷つく生徒が無いように)                  

その日のうちに「お線香をあげたい」と、正装した担任と大勢の同級生たちが、タイムカプセルに入っていた手紙を持って家に訪れました。それは息子が小6の時に書いた「20歳の自分へ。今ぼくは何をしていますか? 夢を諦めないで追い続けてください。……」というものでした。みんなの思い出話を聴いていると、息子は多くの仲間とかけがえのない時間を過ごしていたと知りました。ふと見ると担任は何事も無かったように教え子と談笑していました。きっと私や息子の思いを知っている同級生もそこにはいましたが、当の担任を前にして何かを口にはしない20才のおとなになっていました。

         

難しい子育てのトンネル

次男を出産後、私は夫の親との同居と年子の子育てのストレスで眠れず、世の中に誰も味方がなく出口のないトンネルにいるようでした。今にして思えば「産後鬱」だったのかもしれません。保健師に相談しても気持ちを汲み取っては貰えませんでした。助産師さんは我が子のように子どもをかわいがり何かと気遣ってくれました。幼児期、次男はじっとしていることができず、育て方が悪い、躾が悪いと周りから言われ、私は謝ってばかりいました。同居の祖父母も愛情を注いでくれましたが、家に居ると私は子どもを虐待しそうで、毎日公園や児童館で1日中遊び、夕方帰って大量の家事をしました。毎日遊びまわっていると言う人もいて、すっかり疲弊しました。

幼稚園は少人数制で手厚く、先生方は息子のありのままを認め、かわいがってくださり、元気いっぱいに楽しい時代を過ごしました。親にも寄り添ってくださいました。              

小学校へ入学すると、次男は元気いっぱいでお笑い大好きな人気者、Jリーガーを夢見ていました。担任は新卒の女性で、息子の良さをわかってくれました。しかし、耳からの情報や曖昧な指示が苦手、不注意で忘れ物、なくし物が多いので、担任から家に苦情がきたり、「先生に倉庫に閉じ込められて怖かった」という日もありました。私は3人目を出産して余裕がなく、ならば特別支援クラスへとお願いしても「成績は優秀だから必要ない、愛情不足。毎晩絵本を読んであげて」と言われ、私はますます自信をなくしていきました。

 

不登校・発達障害の診断                                

小4~6年までの担任は、40代の強い指導をする男性で、「もう学校へ来るな!」等の暴言を吐くような人でした。息子は周りの空気が読めず、遊んでいると不意にみんなから注意されるようなことがあってもわけがわからず、とても困っていました。担任に伝えても、見た目が普通で勉強はできる息子の態度がわがまま、怠けと誤解されていたと思います。また先生の叱責すべてが自分の事だと感じて、恐怖からいつも緊張して目の下にクマを作り体にヘルペスができても頑張って登校していました。

 

ちょうどその頃、同じようなお子さんをお持ちの知人に勧められ医療機関を受診すると、当時聞き慣れない「発達障害」と診断されました。育て方のせいではない、もう怒られないと安心しましたが、診断書を学校へ提出してもまったく配慮はありませんでした。やがて息子は追い詰められたように「自分でも何でかわからない」と休みがちになり、小4で不登校になりました。息子は突然フラッシュバックに襲われ、何かにおびえるように頭を抱えました。担任は「癖になるから嫌がっても無理やり学校に連れてきて」とか 「会わせて」と連日家庭訪問し、息子は恐怖で隠れました。息子は学童保育と教会のフリースクールを選び、時々中間教室へ、月~金曜の毎日いずれかへ通いました。ありのままの息子を認めてくれる愛情深い先生方や仲間が待っていて、皆が家族のようでした。息子は皆を笑わせて盛り上げ、小さい後輩たちからも慕われて楽しんでいました。夏休みには、大学生ボランティアによるふれあいキャンプで大学生が温かく寄り添い元気をくださり、NPOの「夏休みこども広場」や「メカトロニクス教室」も楽しみました。 

 

中間教室の先生は「息子がみんなを盛り上げて元気にしている。年下の子どもたちが慕って待っている」と、必要としてくださいました。学童保育とフリースクールの先生方は、子どもの居場所を作りたいと、遠方からあつい情熱を持って来られた方々でした。フリースクールでは野球チームを作ってくださり、練習試合、スポーツキャンプで仲間と汗を流しました。学童は小1〜6年間、放課後や長期休業を過ごしました。先生は息子の良いところをたくさん教えてほめてくださいました。    

       

ある日、息子は友だちに会いたくて突然学校へ行きました。ところが担任は、怒ったように家に電話をしてきました。「後で給食費は請求しますが、何で急に来たのですか」と言う声からは、息子にも迷惑そうな対応をした様子が伝わってきました。ああ、必死に学校へ行き友だちに会えたのに、「よく来たな。元気だったか」と迎えてくれるのでもなく、喜ぶでもなく学校は給食費が大切なんだと感じました。息子は傷つきながらも「学校に行きたい。友だちに会いたい」「でも先生には会いたくない」と言いました。私は学級担任の対応を何とかしてほしいと校長に訴えましたが、「一人の意見では担任は変えられない」と言われました。そこで勧められて相談したスクールカウンセラーの方は、私の気持ちを聴いて働きかけてくれたようで、いくらか改善がみられました。ある相談機関では「その先生方の方針だから。学校は行かなくても卒業できます」と言われました。さらに、私が欠席した学級懇談会で他の保護者から「学校に来られなくなる子がいるほど怒るのはどうなのでしょうか」と問われて、担任は「それは私のせいではなく、実はO君(息子)は心療科に通っているからです」と公表したそうです。これを聞いてとても心外でしたが、さらにある日担任は子どもたちに向かって「O君が学校に来られないのが俺のせいだと憶測で噂を流したのは誰だ!」と激怒し「〇組解散!」と2時間授業を放棄して、泣き出した子どももいたそうです。それ以来、担任が怒鳴り出すと、となりのクラスの先生が様子を見に来るようになりました。私は、周りの目や息子の将来さえ不安になり、本当に苦しい日々でした。 

 

小6の年に校長が変わり、初めて支援会議が持たれました。隣のクラスの先生が担任に「5年の時にやっとの思いで学校に来たO君を、『よく来たね』となんで温かく迎えてやらなかったのですか」と怒りを込めて言って下さり、教員全体の支援がやっと始まりました。私は担任に、息子と接触しないで欲しいと要望し、息子は少しずつ登校しました。私は毎日子どもを守るために授業を見学しました。息子は、学校、教会のフリースクー ル、中間教室、学童へ行く日を自分で決め、毎日通いました。6年生の時に授業で書いた作文の終わりには「一瞬でたくさんの命を奪った原爆はもう二度と使ってはいけないと思いました。昔、戦争でたくさんの人が死んでしまいました。でもその人たちに比べて僕らは自分のやりたいことがいろいろできます。たくさんの死んだ人のためにも、どんなに辛いことや大変なことがあっても、がんばって生きていこうと思いました」と書いていました。息子は中学に行ったら部活も勉強も頑張ると張り切っていました。その頃、地域で「不登校の親の会」ができ、私は初めて同じ体験をして苦しんでいる仲間に出会い、共感し励まされました。当時、長野県は、1,000人あたりの不登校数の全国順位が小学校1位、中学校5位でした。息子の体験のようなことが 長野県の現状に関係しているのではないかと思いました。

 

トラブルが多かった中学時代                                    

中学へ入学し、息子は普通学級を選びました。担任は学年主任で息子を見守ってもらえる存在でした。ところが次第に発達障害への支援は無くなり、息子はただ不登校に戻りたくなくて必死に通いました。2年になるとクラスでは問題が多く、正義感の強い息子は担任がひどいいじめを解決せず親にも隠蔽したと激怒し、友人をかばってトラブルを起こしたり、仲間と一緒に担任に反抗するようになりました。このことでたびたび私は学校に呼ばれて謝りましたが、友だちを守ろうとする正義感の強い息子を誇りに思っていました。

息子はケガで部活を退部後、いろいろな友だちと放課後遊ぶようになりました。雨の日に公園のトイレでゲームをしていて、地域の方から学校へ通報されたことがありました。ただ雨降りで居場所がなかったのだと思います。中3の夏休み前の三者懇談で担任は息子に「おいお前、休み中に空き地だと思っても勝手に入ったら不法侵入で訴えられるからな」と吐き捨てるようにおっしゃいました。家に帰ると息子は、「そんなこと絶対にやらないのに……疑って!」とひどく悔しがりました。息子は 真面目でしたが何度も教師に人格を否定されることに傷つき、そのたびに自暴自棄になり勉強も投げ出しました。

 

高校時代・不登校の仲間の希望の星

高校入試についても、高校入学後も、あらかじめ伝えても発達障害への理解、支援はまったくありませんでした。身体能力が高い息子は、初めてやる運動種目なのに、エース選手になり、後輩に慕われているからと不本意にもキャプテンになり、とても重圧を感じていました。練習は土日もなく毎日で、長期休業は、練習、練習試合、合宿で、休みは数日でした。キャプテンとして期待に応え、今度こそと気を抜くこともできず頑張って、不登校の仲間にも希望を与えていたようですが、高2の冬、息子は突然病に倒れました。

 

病気・入院・退院・自死                        

病気は大きな外科手術を必要とする深刻な状態でした。手術前に息子は「働きたい」「大学行きたい」「ゲームクリエーターになりたい」等と明るく夢を語り、前向きに8時間の手術を受けました。手術は成功し、1か月の入院が終わり、自宅療養を終え、医師から「登校してもいい」と言われた日に、息子は自死しました。思い返すと、手術後息子は食欲も元気も無くなりましたが、医師は「手術は成功したから大丈夫」とおっしゃり、私は学校へ行って友だちに会えばまたすぐに元気になると思っていました。手術後まるで人が変わったように怒りっぽかったり、従順になったりする様子に違和感もありました。退院後のことも心配で看護師に聞いても「そんなに神経質にならないで下さい」と言われ、医師には「何かおかしい時は連絡してください」言われ、何がおかしいことなのかわからずじまいでした。でも、「おかしい」サインを発していただろう息子の本当の気持ちに気づけず、突然すぎて涙も出ませんでした。

 

その時改めて、病気のことや手術後のことやこれからの回復のことを、医師からていねいに聴いていなかったことに気づきました。入院の時に窓口で発達障害であることを伝えていましたが、「発達障害ってなんですか」と聞き返されていました。私が心配していたのは、小さい頃から大怪我をしても「痛い」と口にしたり表情に出したりできないところがあったので、お医者さんにそのことを知らせしました。長期欠席になることや高校への復学についての配慮など、まったく理解や配慮なく診察や治療を受けていたのだと思います。困っていると言えない・表情に出ない息子の、先々への不安に、医師や関係者がどのような言葉がけや説明をされていたのか、息子がそれをどう受け止めていたのかを想像すると、とても怖ろしいものがあります。

 

もし自分の病気が不治のものかもしれないと言う思い込みがあったとしたら、なぜもっとていねいに伝えてやらなかったのかと悔やまれてなりません。小児科や精神科であればもっと違う対応があったのかもしれませんが、大手術をして1か月入院していた病院を去る日、まだ高校生の息子に、ナースステーションで仕事をしていた病院のスタッフは誰一人として「よくがんばったね。退院おめでとう。元気でね」と声をかけてくれるでもなく、立ち上がって見送りをすることも手を振ってくれることさえもしてはくれなかったことに、私は深く傷ついていました。その時は気にかけなかったのですが、入院中息子は、「節分の日に恵方巻を買ってきて」と主人に何度もお願いしていました。息子は何かを願っていたのか? どんな気持ちだったのでしょう。後になって思えば……です。

 

時間が経つにつれ湧いてくる怒りにも似た悲しみで、私は今後同じように苦しむ学生がないようにと後日医師へ私の要望を伝えました。しかし私の伝えることは初めから医師には噛み合わず、まったく腑に落ちる応答はありませんでした。たぶんこの医師個人のことではなく、医療の現場における患者への精神的な配慮や特別な支援が、とりわけ子どもや思春期の世代にとってはとても大切なことなのだということを、息子は教えてくれたと思います。医療現場には医師だけでなく他の職種の多くの人材があり、配慮があればいくらでもできることなのだというのも後で知りました。せめて「これからは病院全体で改善したいと思います」の言葉ひとことでも聞ければ……。

 

息子が亡くなって言われたこと     

ある会議で、子どもの悩みを聞く団体の長の女性が「長野県は19歳以下の自殺が全国1位ですよ!(当時) 親の愛情不足、話を聞いてあげて、絵本を読んであげ て」と発言され、私はとても驚き、傷つきました。専門家の自死予防講座では「自殺はさまざまな社会問題が最も深刻化した末におきている。要因はいくつも重なる。追い込まれた人の誰にでもありうること。10代の自殺は原因不明が多く突発的で予兆がない印象」と伺いました。

 

私は今まで、不登校や自死について当事者として調査された事はなく統計調査の原因欄は誰が書いたのか疑問です。息子が亡くなった直後、高校に自死を伝えると、生徒への影響が大きくさらに悲しいことが起きかねないと伺い、私は「病気で亡くなった」という内容の手紙を学活で読んで欲しいと託しました。一番伝えたかった「悩みがあったら誰かに相談して自分の心と体を守って欲しい」という部分は、自殺を連想させるからと削除されました。何の調査もなく1か月後の3月、校長は異動されました。当然ですが、届いた卒業アルバムには、2年間過ごしたクラスに息子の名前も個別の顔写真も載らず、卒業式も名前は呼ばれず、存在が 消されたようでただただ悲しかったです。統計調査にも「自殺」は隠され「病死」と報告されたのでしょうか。

 

息子が亡くなった後、私は発達障害を支援する機関へも相談しました。担当者には「犯人探しはやめて、もう忘れて前を向きませんか」と言われ、とてもショックでした。周りからも「亡くなった子どもが悲しむから忘れて」「心が弱かったんだね」「本人がやりたかったことだから、本人の気持ちを考えてあげて」「17年も生きたんだから」……等と言われました。犯人探しではなく、私は「忘れてはならない」のではないか、同じ事が繰り返されぬよう解明し予防することが必要と思い至り、自分にできる事を探し続けています。息子は幼児検診や早い節目で発達障害を見つけてもらえませんでした。診断後も支援が無かったり環境が変わる度に説明しても理解されず、息子は二次障害にも苦しみました。長年、思いつくさまざまな機関へ相談しても助けは得られず、私はどうすればよかったのでしょうか。多くの専門家のご意見を伺いたいです。    

 

生きにくい世の中を生きて息子が遺してくれたもの

息子はいつも人を助け、励まし、笑わせて皆を幸せにし皆に愛されていました。頭の回転が早く、多趣味、手先が器用で折り紙が得意。穏やかで平和主義、純粋でまったく差別や偏見がなく、自分より人を大切にする思いやりの深い子でした。入院中も「今日は○○君の受験」「〇君の誕生日」などといろんな人を気にかけていました。亡くなった後、たくさんの友だちが「いじめられた時、助けてくれた」「友だちがいなかったときに遊んでくれた」「理不尽な教師の言動に抗議してくれた」と、感謝を伝えに訪ねてきました。学校では教師から少しの欠点ばかりを指摘され、私もつい欠点に目がいきました。それは障害の特性によるもので、まったく悪気はなかったのです。皆が忘れられないあの明るい笑顔をなぜ失ってしまったのでしょう。

 

手術前、親がいないところで病気が先天的なものであると医師から聞かされてショックを受けていた息子に、「発達障害や病気は、先天的で私に原因があった」と謝りました。息子は「お母さんのせいじゃないよ。運が悪かったんだよ」と言いました。生きにくい世の中を、人の何倍も一生懸命生きようとした男の子が、命をかけて教えてくれたことを心の隅にでも覚えていて欲しいです。亡くなった今も多くの人の心の中に生きて、たくさんのことを学ばせてくれています。

 

たくさんの息子の友だちや、見守って下さった方々が「彼の死をムダにしたくない」と、息子を想い、志や使命感を持ちさまざまな場所で活躍されています。子どもの悩みに寄り添う教師になりたいと、進路を変えて大学で学んでいる友だちもいます。また、私が息子のメッセージを受け取りたくて出向いていく先々では、息子のおかげでたくさんの大切な出会いに恵まれました。私はそのことに大きな力をもらい、これを書くことで何かが変わる力になれば息子は喜んでくれるでしょうか。                           

教師や子どもと関わるすべての方へ。いつも心に「尊厳」を思って欲しいです。発達障害や不登校の子どもや親の気持ちをもっと知ってありのままのその子を認めて欲しいです。

 

辛すぎて見られなくて、ずっとしまってあった遺書です。                   

「こんな事をして本当に申し訳ないと思っていますがずっと前から決めていたことなので決行しました。 ただ勘違いしないでほしいのは、別にだれかのせいでこうなったとか、ではなく単純に未来に希望が持てなくなっただけなのでそこだけはしっかりとわかっていてください。17年と5か月という短い間でしたが僕を育ててくれてありがとうございました。なのにその恩を返せない不甲斐ない息子で本当に申し訳ありませんでした」

 

悲しいので小3の授業で書いた手紙で終わります。                      

「おなかの中にいるとき元気になるようにあつい夏もがまんして歩いてくれてありがとう。あいじょうをもらったことにとてもかんしゃしています。小さい時、まいにち児どうかんや公園へつれていってくれてありがとう。赤ちゃんの時から毎ばん絵本を読んでくれてありがとう。だから本が大すきになったんだね。ここまでそだててくれて、ぼくをうんでくれてありがとう。これから楽しい思い出を作るよ。<9才のぼくより>」

 

  数字にこだわりの強かった息子。

2020年(令和2年)2月22日に母記す。

 

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